自分の体力に合わせて、気軽にハイキングを楽しむ集いです。年間3回実施します。
女性の参加者が多くなってきました。歩いた後の昼食会を楽しみに参加する人も目立ちます。
史跡めぐりを兼ねたミニ歴史探訪は、回を重ねるごとにご好評をいただいています。
 部会長:山田(STV) 世話人:出田(STV)越野(HBC)高谷(STV





75回「歩く会」は、札幌のミニ歴史探訪シリーズ第11弾「烈々布って読めますか?」と題し、去る104日金曜日に、地下鉄東豊線栄町駅を起点とした道行きを実施しました。
企画立案中には当日の天候など知る由もなく、たまたま台風の影響によって90%雨の中という、歩く会始まって以来の不運に見舞われましたが、止んでいる時間もあり量的にも大したものではなかったので、幸いメンバーから笑顔が消えるシーンはありませんでした。

札幌のミニ歴史探訪シリーズ第2弾の大友堀に続いての「旧札幌村」の史跡探訪でしたが、札幌村も最北に位置するこのあたりの旧地名は「烈々布」(れつれっぷ)といいます。
古い地図には「篠路烈々布」「札幌烈々布」「丘珠烈々布」の地名が見られ、互いに隣接していました。レツレップの語源はアイヌ語だと思いますが、意味は不明です。

今回訪れたのはそのうちのひとつである「札幌烈々布」で、まず鎮守様である烈々布神社に参拝しました。現在の地番では「札幌市東区北42条東10丁目1番地」となります。


烈々布神社に詣でる善男善女

道内一の祭神数を誇る神社で、創建は1889年(明治22年)119日。御祭神は以下の9柱です。
天照大神、少彦名神、大穴牟遲神、倉稲魂神、埴安姫神、誉田別尊、崇徳天皇、菅原道真公、藤原三吉命。全て読めた方はかなりの神社通とみました。
この雨の中をわざわざ参拝に訪れた善男善女には、今後大きな幸運が待っていることでしょう。

続いて訪れたのは、道路一本を隔てたところに位置する「ひのまる公園」。

旧札幌村に存在した三大農場のひとつ「日の丸農場」の跡地を公園化したものです。園内には歴史を感じる見事な木立の中に、公園造成に助力された方々の顕彰碑があったり、晴れてさえいれば…の感を強く抱きながら、あたふたと通過するだけだったのが痛恨でした。


日の丸公園記念之碑(揮毫:堂垣内尚弘)

この公園のすぐ東側には、1996年まで日本短波放送(現ラジオ日経)の送信所があって、南に位置するHBCのラジオ送信所と共に威容を誇っていたものです。現在のラジオ日経送信所は、根室市東和田の旧電電公社送信所を転用しています。


北海道民放第一声の地碑

次いで訪れたのはイオン元町ショッピングセンターですが、なぜここが札幌の歴史なのでしょう?実はここは以前HBC札幌ラジオ送信所だったところなのです。
今では考えられない人里離れた「ど」田舎の荒野の真っ只中に、トドマツ材を12本継ぎ足して作った地上高80mの木造空中線で放送を開始したその場所なのです。

荒天の中、前日から仮設の局舎に泊まり込んでスタンバイしていた河内寿美子アナウンサーの第一声がOAされたのは昭和271197時のことでした。
これを顕彰して敷地の北東角に「北海道民放第一声の地」碑が設置されています。
当時をご存じの最年長のOBが、既に昔の面影が全くないにもかかわらず、ここに社宅があって、ここに局舎があって…と懐かしそうに写真を撮っておられるのを見て、「幹事冥利に尽きる」の感を強くしたものです。

雨中行軍で見学や休憩を端折った関係で少々時間が余ったため、イオン店内で休憩を取って時間調整後、少々長目でしたが最後の道程の会食場まで約1.8kmをひたすら歩きました。

折しも沿道は昨年の地震で陥没した道路の本復旧作業がたけなわで、今しか見られない貴重な工事風景を目にしてに、参加メンバーの皆さんは一様に驚いていたようです。


「さんかい」で満足した後の面々

毎回昼宴会可能なお店を探すのが至難なのですが、今回、人数がまとまればお受けしますよ…と言って下さった、「活菜旬魚 さんかい環状通東店」にて会食を開催。食べきれない量の料理を持て余しつつ、何とかお腹を押さえながらの解散。目と鼻の先の地下鉄環状通東駅まで和気藹々の帰路となりました。


参 加 者 奥津、小野寺、越野、白幡、薗田、竹田、富原、福原(HBC)

岩倉、佐藤、高谷、富樫、山田(STV) 澤田(HTB)

佐々木、野島(UHB) 石井、小林(賛助)
(写真:山田、越野 文:越野)  





74回歩く会は、去る726日、札幌市のミニ歴史探訪・第10弾「みんなが知らない厚別区」と題し、当会会員でもある、厚別区民歴史文化の会代表世話人・松山瑞穂(みのる)氏の案内と解説のもと、氏の力作であるレジュメを手にしてJR厚別駅から新札幌副都心までの史跡を巡りました。

暫くぐずついた天気が続く中での開催でしたが、集合時は小雨…雨具なしでも何とか凌げそうな空模様だったのが、厚別の鎮守様である信濃神社に参拝する頃には陽射しも感じられほどに回復し、改めて参加した善男善女の日頃の行いの御利益に感動した次第です。
気温も27度で暑くもなく勿論寒くもなく、そぞろ歩きにはちょうどいい塩梅でした。

信濃神社での善男善女…
I氏のポンチョはすぐに不要になりました

信濃神社境内

ここ厚別区の鎮守様が「信濃神社」なら、本家「厚別神社」は?と言うと、こちらは実は清田区の鎮守様で、厚別神社と書いて「あしりべつじんじゃ」と読みます。
厚別川も下流の厚別区では「あつべつ川」、上流の清田区では「あしりべつ川」と呼称が変わり、かなりややこしいことになっています。


団地のシンボル、旧馬場農場の大サイロ

経路途中の、JR千歳線の高架脇にあって地上からも鉄道の車窓からもランドマークとしてよく目に付いた、屋上に時計台を架装したビルは、既に取り壊されてマンションに変身していました。 

国道12号線を横断し、ひばりヶ丘西公園へ向かいます。この辺りは一帯が旧馬場農場だったところで、公園隣のひばりヶ丘西集会所脇には「さっぽろ・ふるさと文化百選」にも選定されている旧馬場農場の大サイロがそのまま保存されていて、いつ見てもなかなかの壮観です。

現在はひばりが丘団地のシンボルとなっている大サイロを見ながら新札幌副都心へと進むと、このあたりは現在からはとても想像出来ない、火葬場と墓地の跡地です。

往時を偲べるものは、国道12号線沿いの智徳寺境内にある二つの石碑だけ。

一つは「厚別墓地跡記念碑」もう一つは「墓石移設記念碑」で、以前豊平公園を散策した時に経験したのと同じく、古くからのご先祖様の霊を、開発に伴って里塚にご隠居頂いたという歴史の証でした。

この地を象徴する二つの石碑
更にこの先は旧陸軍の弾薬所があったところ…しきりに下を見ながら不発弾を探しているメンバーがいました。
一体何やってるんだか…
ある訳きゃないでしょ(笑)。
この姿…放送人はいくつになっても何についても興味津々です

こういう歴史とは裏腹に、驚異的に発展した新札幌副都心の散策、終点は当地のシンボルでもある一大ショッピングモール「サンピアザ」です。
何もない、札幌都心とは隔離されていたこの地に副都心を造ろうという構想で始まった開発でしたが、地下鉄開通が大きな引き金になったこともあって、今では都心から間断なく続く大きな市街地を形成しています。近い将来には江別市から札幌学院大学が移転してくるそうで、アカデミックな面での発展も見込まれています。


今回も和気藹々の2時間でした

ところで、当歩く会のもう一つの楽しみは言うまでもなく事後の「会食」、所謂「昼飲み」です。これだけに参加される方もおられるほどですが(今回も2名)、現役時代ライバルだったことも忘れて、気の置けない仲間と一献傾けながら年甲斐もなく昔話や与太話に興じるのは、リタイア後の生活においては大変貴重なひとときです。
会場はサンピアザの「いろはにほへと」…有名な居酒屋さんですが、流石に名の通ったお店だけあって、お値段以上の2時間をたっぷり愉しむことが出来ました。

さて、歩く会のミニ歴史探訪企画も二桁の開催回数を数えましたが、残念ながら南区、清田区は交通アクセスの制約から実現が容易ではありません。
まだまだネタは豊富に温存していますが、リクエストがありましたらお応えしたいと思いますので、是非ご要望をお寄せ下さい。
発寒区が出来るまで続けます…東南西北白【発】中…


参 加 者 越野、白幡、薗田、竹田、富原、長原、松原、松山(HBC
出田、井上、岩倉、北島、佐藤、高谷、平松、山田(STV
五ノ井、澤田、長谷川(HTB) 石井、伊藤、小林(賛助)
(文と写真:越野)






「永山記念公園」に建つ旧永山邸前で

参加者 HBC:奧山、皆藤、越野、白幡、薗田、竹田、冨原、長原、松原
STV:井上、北島、佐藤、平松、山田
HTB:長谷川  UHB:佐々木  
賛 助:石井、伊藤  ゲスト:岡田、菊池

元号が平成から令和に変わった510()、〈 歩く会 〉はミニ歴史探訪を苗穂地区に焦点を合わせることになった。集合場所を昨年末、従来より西寄りに新築され2階駅舎になったJR苗穂駅待合室とし、時間までに全員が揃った。代表の挨拶、シリーズ幹事の越野さんから、今再開発で全く姿を変えようとしている苗穂地区を散策する旨、コースの紹介があり、早速階段を降り駅前に出る。

昨日までの続いた好天は、低温・曇天に姿を変えてしまった。最初、我々年寄りには「キャラメル」で懐かしい旧古谷製菓(株)の工場跡へ。ここでは新しい道路の関係で、方向感覚に狂いが生じ、改めてJR苗穂駅・ファイターズ屋内練習場・函館本線線路などを眺めまわし、やっと自分のイメージが回復したと仲間に話す会話を聞き、方向感覚のズレは自分だけで無い事を確認した次第です。
日本ハム室内練習場の横を通った時、参加者から室内見学は出来ないの?、と問われたが、今日のスケジュールには入っていません。・・・と答えた。しかし、中を見学したいのは誰もが考える事、とも思った。

謎の石造り倉庫
 
案内ハガキに記載された「謎の石造り倉庫」は光星団地6号棟にあるが、その存在には諸説あり正確な説明は難しいようだ。
巨大なガスタンクがあった場所に、新装された「中央体育館」は専用の渡り廊下が「サッポロファクトリ−」まで繋がれていた。北欧並みの再開発!と実感する。昼食前、最後に「永山記念公園」に建つ旧永山邸を見学し、集合写真を撮る。
昼食会(サッポロファクトリービール園) 
ゲスト参加の女性2名とお別れし、ファクトリーのビヤホールへ、さすが昼食時、広いホールには近くのサラリーマンと観光客の団体が席を占め、サッポロ生ビールを味わって居る様だ。注文したメニューは「生ラム・牛カルビと生野菜」焼きに、飲み物は、各種生ビール+お酒+ワイン各種+ソフトの食べ・飲み放題、席は分かれていたが、楽しい懇談が続いた。
(文と写真:山田)   







「冬にも歩く会を・・・」と言う声が、かねてからありましたが、雪道の転倒事故などを懸念して開催が先送りされてきました。

ところが、このほどHTBが新社屋に移転。そのスタジオと最新機器を見学したいとの希望が多く寄せられました。そこで、HTB出身で民放クラブ事務局長の長谷川さんに会を代表して交渉してもらい「見学会」が実現することになりました。
これを、街歩きにも絶好の機会と捉え、札幌中心部の地下街を歩く <冬の歩く会.>が日の目を見ることになったのです。

午前10時、札幌市役所ロビーに集合。目玉行事の「見学会」のためか、参加者は久し振りに総勢で28名になりました。
地下鉄直結の市役所地下2Fから、新装なった【さっぽろ創生スクエア】ビルまでは、さらに地下道で結ばれています。風雨にも寒さにも煩わされない快適な移動でした。
HTB受付で見学入館証をいただき、専用エレベーターでスタジオがある4Fに直行。
エレベーターのホールボタンに、上下矢印以外に「報道使用中ボタン」があり、なるほどと頷きながらスタジオへ向かいます。

スタジオ内にはニュース用のセットが組まれ、照明に照らされて直ぐにも放送できる雰囲気でした。
カメラは以前より相当小型になり、カメラを載せるペデスタルも小型化。マイクを吊るパラビュレーターも小型に。しかし、LED化されても照明器具は依然と同じ大きさ? コートを着ていても暑くはない温度! さすが新技術と感心しきり。
民間放送が開局した頃の放送機器は、全て真空管で構成され、その管理には神経をつかう、まことに不安定なものでした。
時は移り技術は進歩し、真空管から固体化と進んで、安定度は飛躍的に高まり故障率は低下しました。まさに技術革新です。

サブは広く、大型番組の多元中継に対応できるよう設計されており、第1・第2スタジオを第2・第1サブからも操作可能になっていました。しかし、スタッフが操作する機械の配置は、40年前の昔と変わらないと感じました。
HTBの新社屋を見学したあとは、三々五々さっぽろ創生スクエア内の札幌市図書・情報館、札幌文化芸術交流センター等を覗き、最新の文化情報を感じながら、新設の地下道へ繰り出しました。

市役所〜オーロラタウン〜ポールタウン〜すすきの駅まで歩き、引き返して札幌駅近くの紀伊国屋書店に再集合し、隣のJR55ビルにある【ガーデン旻】昼食会場に到着。
本日の立役者である、長谷川さんの発声でジョッキーを挙げて宴が始まりました。
参加者が20名を超えたのは久し振りです。やはり新スタジオ見学は新しい時代への好奇心と、我が身の現役時代に遠く想いを馳せるノスタルジックな想いとが重なる、心地よい集いだったのです。
今回の歩く会は「スタジオ見学参加/不参加、昼食会参加/不参加」など、参加条件が多岐にわたり、さらに世話役の欠席が重なって仕切りが混乱しました。
総会では幹事役の追加を2名ほどお願いするつもりです。
都合がつく方、どうぞ手を挙げてください。

(昼食会参加者)
石井・伊藤・内田・奥山・川嶋・菊池・北上・北島・佐藤・澤田・薗田・竹田・冨原・長原・野島・
長谷川・畑・林・福原・松原・山田
文と撮影:山田 構成:内田





連日の猛暑が続く7月31日、<歩く会>は元気に歩きました。中国・四国・近畿では40℃を超え、「熱中症」で多数の死亡者が発生し、気象庁は「観測史上初」を連発。
北海道にも「蝦夷梅雨」状態が停滞した。30℃を超える7月31日、第70回<歩く会>は、会場を豊平公園から月寒公園を巡る「豊平区ミニ歴史探訪」と題して元気に歩いた。


参加者 HBC:内田、奥山、小野寺、白幡、竹田、冨原、松原、越野
STV:井上、岩倉、佐藤、富樫、高谷、山田
HTB:澤田、長谷川  ゲスト:小林

とにかく「熱い!」。豊平公園地区では豊平墓地跡の記念碑について、越野さんの説明を聴いたが、僅か40年前まで街の中に広大な墓地が存在したとは信じられない思いだ。
1989年(平成元年)北海道で開催された第44回はまなす国体の関係で建設された、北海道立体育館「きたえ〜る」に入館。ちょうど開催されていた北海道中体連バレー競技を見学した。
冷房が効いた館内から公園側の外に出るとレンガ舗装は太陽に焼かれ熱い! 
すぐに目前の緑豊かな公園に入り、一息入れる。
長い緑のトンネルを潜りながら月寒公園へ向かう。
途中から豊園線(アップルロード)に入り、リンゴ並木が連なる環状通を渡り、白石中の島通りを横切って、旧日本軍の練兵場であった月寒公園に入る。ここには豊平村開拓時代から豊平町時代に功労があった方々の記念碑が点在し当時を偲ばせる。
月寒神社から坂を下り、ボートが浮かぶ池を眺めながら歩き遊具が配置された広場の木陰で一休み。
水分を補給し、全員の集合写真のシャッターを近くの若いお母さんにお願いした。
豊平区役所近くの昼食会場は、流石に冷房が効き心地よく過ごせた。
飲み放題のビールがサッポロビールとは珍しい!と越野さんの掛け声に合わせて“乾杯!”
種類の少ない焼肉より、生野菜が多いオードブル・種類が多いデザートが人気の焼き肉店でした。
だが、後期高齢者がほとんどの<歩く会>参加者全員が、この日の激暑にもかかわらず、元気に普通に楽しめたことにお祝い申し上げます。
(文 写真:山田)





前日までのぐずついた天候と低温がウソのような、まさに歩くために用意されたような天気に恵まれた第69回歩く会は、去る5月11日、札幌市のミニ歴史探訪・第6弾「西区・琴似屯田兵の足跡を辿る」と題し、琴似屯田兵の直系子孫で屯田兵の歴史についての著書もお持ちの、長沼修北海道民放クラブ会長ご自身の案内、解説のもと琴似屯田兵関連の遺跡を巡りました。
長沼氏が会長に就任された折に、会の活動を紹介していく中で、ミニ歴史探訪というキーワードから、是非と言うことで今回の案内とレジュメ制作を買って出て下さいました。
願ってもない申し出に、本年度の第一回目として早速実施した次第です。


JR琴似駅前に集合する参加者

参加者 HBC:奥山、越野、薗田、竹田、冨原、長沼、福原
STV:出田、佐藤(晃)、高谷、平松、山田
HTB:澤田、長谷川  ゲスト:越野夫人、山田夫人、小林


当初は地下鉄琴似駅集合後、琴似神社周辺に集積された史跡を巡ったあと会食、解散という予定だったのですが、これだけだとなんと総歩行程約300m!!!
これでは歩く会にはならないだろうとの声が上がり、急遽集合場所をJR琴似駅に変更しましたが、それとて1kmちょっと。その分見学の中身の濃さで雰囲気を味わって貰おうということで今回の企画となりました。このお陰で、足が不自由で普段長歩き出来ないメンバーも参加出来たのは幸運でした。
絶好の好天のもと、琴似駅から一路国指定史跡「琴似屯田兵村兵屋跡」へ・・・。
普段車で通過するチャンスの多い琴似栄町通(琴似駅前通)ですが、配布された資料にある昔の街並みと対比しながら歩いてみると、時代感覚が行ったり来たりしてきます。

琴似駅前通り歩行中

国指定史跡「琴似屯田兵村兵屋」
特に筆者は半世紀以上前からこの地を知っているのでその思いもひとしおでした。
折しも兵屋跡ではボランティアの方々が畑の耕作、種蒔きを終えられて一息つかれていたところ。皆さん先達の御子孫と言うことで、ひととき話に花が咲きました。

 
鎮守の琴似神社本殿
 続いて訪れたのは地元の鎮守である「琴似神社」です。
過去の資料によると、この地での宗教は圧倒的に神道が多かったとのこと。
多くの寺院が進出する以前にこの社があったからのようです。
以前歩いた東区元町地区には、札幌最古を標榜する本龍寺を始めとする古刹が多かったのと対照的でした。


神社境内裏の「琴似屯田兵屋」

集約された石碑群

入植した屯田兵の名簿

社裏に移設されている「琴似屯田兵屋」や併祀されている社にお詣りした後、区民センター前にまとめられた「陸軍屯田兵第一大隊第一中隊本部之跡」など記念碑を見学、最後に訪れた「琴似屯田歴史観資料室」で休憩がてら歴史資料を前に、ボランティアの方の説明に頷きながらひとときを過ごしました。

歩く会のもう一つの楽しみは、歩いた後の「会食」。
これだけに参加される方もおられるほどでが、気の置けない仲間と一献傾けながら、年甲斐もない与太話・・・失礼、真面目な話題にも花を咲かせるのは、リタイア後の生活において大変有意義なことだと思います。
今回は少々格式のあるお店だったので、話の内容も高尚だったかはさておき、天候に恵まれた今回のイベントを無事終了することが出来ました。

昼食・・・当然これだけではありません

次回はどちらの方面を企画しようか、迷いに迷っている幹事に何かアドバイスがありましたら、是非お願いします。リクエスト、大いに歓迎です。
文:越野  写真:長谷川、越野







参加者 HBC:内田、奥山、桑畑、越野、竹田、冨原、松田 
STV:岩倉、北上、古賀、佐藤、山形、山田夫妻(奥さんはゲスト)  
HTB:長谷川  賛助会員:伊藤、石井


前日の雨、そして当日の朝の冷え込みは何だったんだろう??? と、疑問符が三個も付くような、この上なく気持ちの良い小春日和のもと、10月19日に第68回歩く会が開催されました。 
 開拓の村エントランス(写真左)は、旧札幌駅のレプリカ
ビジターセンター(写真右)も、北海道開拓使庁のレプリカ

今回は、札幌市のミニ歴史探訪・第5弾「厚別区から北海道の歴史を見よう」と銘打って、厚別区の「北海道開拓の村」を訪ねてみました。ここは、ご存知の通り、道内の歴史的建造物を集積し、可能な限り原状回復して通年展示している施設です。
一日一杯滞在しても時間が足りないという方もおられる中、昼食までの一時間半でどれだけ見ることができるのか心配だったのですが、ボランティアのガイドさんの協力を得て、大まかな部分だけは見ることが出来たようです。



鰊御殿 旧青山邸

旧岩間家農家住宅には
大根が干されていました
心地よい天気のもと、野幌森林公園への取り付け道路を歩く一行
 
JR森林公園駅からの往復も、折から見頃の紅葉に目を奪われながら、普段は車からしか見ない風景とはひと味違った楽しみ方が出来ました。
殆どの方がリピーターで、当会でも10年ちょっと前に一度企画したこともあって、参加者は17名にとどまりましたが、紺碧の空の下、遠望に雪を抱いた手稲の峰を望みつつのひとときを堪能しました。
たった一つ気になったのは、構内を周回している馬車鉄道の「お馬さん」が、可哀そうな位に喘ぎながら車を牽引していたこと。
最近入ったばかりで不慣れなためとの説明を受けましたが、とても乗ってみようという気は起きませんでした。次回までに慣れて、悠然としている姿を期待したいものです。

会食は森林公園駅前のバイキング専門店。
シンジラレナイほどの値段で食べ飲み放題…でも当会の紳士淑女にはもうちょっと気の利いたところのほうが良かったかな…と若干反省している幹事でした。

越野幹事は、今後も徹底して札幌市のミニ歴史探訪に拘る由、折しも長沼会長の「僕は琴似屯田兵の子孫で、それなりに勉強しているつもりなので、西区の歴史探訪は任せておいてください」と言う心強い檄を頂戴して更に図に乗っています。来年はこの企画を是非実現したいと祈念しているところです。
(文:越野  写真:山田、越野)







参加者 HBC:内田、奥山、皆藤、桑畑、越野、竹田、冨原、長原、松田、松原
STV:井上、岩倉、佐藤、山田、山本  HTB:澤田、長谷川  UHB:難波
賛助会員:石井、伊藤  ゲスト:堀井、湊

北海道民放クラブ歩く会・第67回は、「札幌市のミニ歴史探訪・第4弾…白石区から中央区〜札幌の開祖・ふたりの豊平川の渡し守を偲んで編」と銘打って731日に実施しました。

集合場所である地下鉄菊水駅は、札幌の歴史の上では大変重要な位置づけとなる「白石遊郭」の真っ只中だった場所にあります。
遊郭が栄華を誇った時代には、現在の菊水22丁目の藤井ビル前と同52丁目の菊水公園前に大きな門があって、遊郭内と娑婆との境界になっていました。このことから、この通りは今でも「大門通」という名前で呼ばれています。
遊郭が現実だった時代は勿論知る由もありませんが、ここから2丁ほど離れた所で生まれ育った筆者が子供の頃には、既に遊郭は廃れ果て、廃墟となった建物の中庭を取り巻く回廊が我々の遊び場になっていたもので、その雰囲気の片鱗だけは子供なりになんとなく感じていました。

尤も例の法律の施行後も近隣の非合法地帯は相変わらず存在していて、小生が社会に出てからも、豊平側にはその筋の店が何軒かあったという記憶があります。

子供の当時は、日が暮れるまで走り回って遊んでは、二階の廊下を踏み抜いて階下まで落ちたりしたものですが、さすが昔の子供はそんなことくらいでは怪我などした覚えはありません。懐かしいやんちゃ坊主時代の思い出です。

一条橋たもとから豊平川の堤防に出て、豊平川右岸通と、河原越しに中央区のビル群を左右に見ながら南下すると、河岸公園にひっそりと見落としてしまいそうなモニュメントを見つけることが出来ます。よく見ると、表示には「有島武郎邸跡地」とあります。
ここは有島武郎が結婚後の1910(明治43)年10月から約1年間住んだ住居の跡地(実際には道路の向かい側)で、住宅そのものは、厚別の開拓の村に移転保存されています。

なお札幌にはもう一カ所、北区北12条西3丁目にも有島武郎邸跡があって、そちらには1913(大正2)年8月札幌に永住を決意してこの地に自宅を新築し、翌1914(大正3)年11月に妻安子の病気療養のためこの地を去るまで住んでいました。この住宅は、南区の芸術の森に保存されています。


「豊平橋小史」案内表示板前で

ここから約400m、途中、渡った先がガードレールで行き止まりという、かなり笑える横断歩道を横目に見ながら、国道36号線を渡ったところにある緑地まで豊平川を遡ります。
緑地の角には名橋といわれた旧豊平橋のイラストをあしらった「豊平川小史」という真新しい掲示板があって、豊平川の簡単な歴史が記されています。

そしてこの植え込みの中に何やら曰く因縁のありそうな大きな石碑が建っています。

これは、この後訪れる「札幌開祖 吉田茂八碑」の主と共に、札幌の歴史を語る上で絶対に外せない人物「札幌開祖 志村鐡一碑」なのです。以前は菊水側の住居跡にあったのですが、現在はここ豊平側に移設され、以前設置されていた菊水側の先ほどの謎の横断歩道直近には、木の標柱が残されています。

札幌開祖 志村鐡一碑
続いて豊平橋を渡って中央区に入ると、直ぐ左岸にこぢんまりした公園があって、こちらにも少々新しいながらも同じような石碑が設置されています。
そして碑文には「札幌開祖 吉田茂八碑」とあります。

札幌の開祖である、豊平川の渡し守二人の生活はどのようなものだったか、遠い昔に思いを馳せつつ、続いては豊平川の河原に降り、暫く浮世離れしての散策です。ここから生憎の小雨模様となりましたが、苦になる量ではありません。

札幌開祖 吉田茂八碑

この辺りは、以前は自動車学校の練習コースがあった所ですが、すったもんだの末退去し、今では整備されたパークゴルフコースなどに利用されています。

更に時代を遡ると、ここはご存じの方も多いと思いますが、雨の当たらない豊平橋や一条橋直下の一等地からはみ出した掘っ立て小屋が露天に密集していた、通称「サムライ部落」でした。
ここには、今では信じられないような生活があったのですが、この辺りの変遷をつぶさに見てきた身としては、今の整備された河原の姿が全くの別世界に感じられました。


放送記念碑

さて、幌平橋を望む辺りで再び娑婆に戻って中島公園に入ります。
中島公園には神社境内を除いて14箇所の記念碑、モニュメントが設置されていますが、全ての周回は無理ですので、当日はその中からまず我々に縁の深い、放送業界の先輩であるNHK殿に敬意を表して「放送記念碑」を訪れてみました。
ここは昭和3年に、北海道で始めてラジオ放送を開始したNHK札幌放送局があった場所で、昭和34年に現在地に移転するまで供用されていました。この空中線を模した記念碑は、昭和63年に開局60周年を記念して建てられたものです。

余談ですが、イオン札幌元町ショッピングセンターはHBCラジオ送信所跡地に建てられた施設で、敷地内北東角には「民放第一声の地」の碑が建てられています。

続いての歴史探訪は大変新しいものですが、1990年に創設されはや28回、今や夏の札幌の風物詩とまでなったPMFPacific Music Festival)の創設者である名指揮者、「レナード・バーンスタインの立像」です。


バーンスタインの立像と

その前で憩う参加者たち

ここを訪れるたびに、件のレニー氏は鳥の糞にまみれ、糞害のひどさに憤慨していたものですが、今年もPMFの開催を迎えてきれいに化粧直しされています。とはいえ、先日行った下見の際には、既に元の木阿弥になっていました。

さて、今日の締めくくりは、世界に誇る名コンサートホール「キタラ」の前を通り越し、化粧直しが終わってリニューアルされた豊平館を巡って日本庭園に向かいました。

ここは都会の喧噪の中で、全く浮世離れした空間、どことなく心安らぐ場所です。
そしてここのお目当ては、この一角に設えられた重要文化財である「八窓庵」です。


八窓庵

水琴窟を鳴らそうと必死になるも・・・

八窓庵の庭には「つくばい」が設えられていて、筧からの水がしたたり落ちると華麗な音を発する水琴窟が仕込まれているのですが、最近は水は止められたままになっています。そこで警備員さんに伺ったところ、バケツに水を持ってきて下さり、これを流すと聞こえますよ…とのこと。
一旦散りかけたメンバーを呼び戻して「さぁて、お立ち会い!」まではよかったのですが、結果は…残念ながら聞こえませんでした(笑)

と会かいわら31当日の散策は少し緩めでしたが、それでもお腹はすくもの。昼食はキリンビール園での会食です。
食べ飲み放題でしたが、お代わりする席、持て余す席多様な宴会模様の中、普段車椅子生活を余儀なくされている山本さん(STV)も参加されて和気藹々と今回の幕を閉じました。

なお天気は昼食直前に本格的な雨となりましたが、概ね涼しく過ごせ、会員諸氏の日頃の行いの賜であると実感しました。
(写真:山田・越野  文:越野)





523日旱朝、予報にない小雨が降りだしたが、短時間で止んだ。低温・曇天ながら集合場所の札幌駅に向う。
札幌駅北ロ、定時には全員受付を終了した。最初の見学地は開拓初期には郊外に位置し、普は低地で小河川の痕跡が残る「偕楽園緑地」と、その北側に貴賓接待所として建設され明治天皇も巡行された「清華亭」、昭和36年札幌市の有形文化財に指定された。
「清華亭」から北8条通りを渡り北海道大学構内へ、クラーク会館北東、クラーク像が立つ緑地南端から突然流れ出す湧き水は、札幌市が提供している水道水の一部の由、現地を見ないと信じられない。キャンパスを歩き、第2の目的地は昨春、大改装された「北海道大学総合博物館」、ここには、恐竜骨格のレプリカを始め北大工学部と赤平市の製作所が共同で製作・運営している、固体燃料ロケットの実物が開発順に展示されている。小学生・中学生・高校生・学生・興味を抱く一般の方々に来館されることをお勧めします。また、博物館に展示される物は本物であることが望ましいと感じた。

最後は明治11年、信濃の国人がこの地に移住し開墾し、造営した「札幌諏訪神社」でした。この辺りまで来ると参加者の足取りも遅くなり、幹事の越野さんから「巻き」が掛かり、ピッチを上げ札幌駅構内西側まで戻り、昼食会場に予約したガード下のPASEO「丸海屋」に全員集合した。二つのテーブルに別れたがビールで乾杯し、「歩いた・見た・経験した」ことを話しながら楽しく過ごした。
昨年の第63回から始めた「札幌ミニ歴史探訪」シリーズはご多忙な幹事:越野さんの発想で、説明文書も作成して項いている。
 =感謝申し上げます=



尚、集合写真には昼食会から参加の冨原さんと石井さんが撮影時に不在のため、載っていません。

(文と写真:山田)
参加者 HBC:内田、奥山、小野寺、柏倉、桑畑、越野、薗田、竹田、冨原、松田、松原
STV:出田、佐藤、中島、山田夫妻  HTB:長谷川
AirG:湊夫妻  賛助会員:石井  ゲスト:堀井






参加者 HBC:内田・奥山・皆藤・桑畑・越野・薗田・竹田・冨原・松田・松原
STV:出田・井上・岩倉・佐藤・高谷・中島・山田夫妻
HTB:長谷川 UHB:難波・林 AIrG:湊夫妻 ゲスト:石井・小林

新企画 十区ミニ歴史探訪〈歩く会〉は第2回目を東区に決め、発案者の越野さんと慎重な現地下見を経て、103日午前10時にスタートしました。当日の天気予報はあいにくの雨。そんな悪条件にもかかわらず、25名の熱心な参加者が「地下鉄東豊線環状通東駅」に集まり、「旧札幌村」のミニ歴史に触れました。
最初に訪れたのは、旧札幌村の氏神、札幌村神社(祭神:大国主命、大な大己貴神、少彦名神 三柱)、記録では、明治32年(1889年)札幌神社として創立を試みるも、現 北海道神宮が当時使用していた名称であったため許可が下りず、「村」を加えて創立されたとあります。境内は質素ですが歴史を感じました。

次は環状通りを渡り、日蓮宗の妙見山本龍寺、石狩国札幌郡最古の寺院で、境内には、原田與作 元札幌市長筆の「札幌村創建百年記念碑」もあり、毎年812日に行われる「妙見尊大祭」は札幌最古のお祭りとのこと。安政年間(18541859年)明珠院 日現 が開山し、慶応4年(1864年)大友亀太郎によって境内に札幌村の鎮守として妙見堂が建立され、明治147月、寺号を公称しました。
続いて妙見寺の南に進み、札幌の開拓者である「大友亀太郎」や当時、栽培が゙盛んであった「玉葱」を中心に、郷土史を語り継ぐ目的で開設された博物館的施設である「札幌村郷土記念館」に向かいました。札幌村が開設される前の札幌元村開拓時代の古地図、開拓当初盛んであった「玉葱」工作に関する農具などの資料、大友亀太郎の古文書等が展示されており、これらは「札幌村・大友亀太郎関係資料及び史跡」として、昭和26220(1987)札幌市指定の有形文化財に指定されています。
大友亀太郎像前で
なお、当記念館は通常、月曜日が定休日ですが、我々民放クラブ歩く会の見学の為、特別に開館して対応して頂きました。入館中に雨が降り出し、近くの旧大友堀と伏篭(古)川が合流した跡地に、大友堀を模したミニ水路と噴水が配置された「大友公園」の芝生も濡れていました。
再度環状線を北に渡り、長い藤棚で有名な「伏古公園」に入り隣接する札幌で三番目に古い歴史を持つ札幌小学校を眺めながら公園を一周し。再々度環状線を南進し、斜め道路の元村街道を歩きながら大正9年建立の曹洞宗「大覚寺」を目指した。この山門は北海道内最大と評され、合わせて「五百羅漢」を収めた御堂も設置されている。境内のイチョウ・枝垂れ柳・やちだもが札幌市の保存樹に指定されています。
大覚寺五百羅漢前で

雨も小降りになり、昼食会場の「サッポロビール園」到着は予定を20分も超えてしまいました。
今回の昼食会場は、「東環状駅」付近には適当な会場が探せず、少し離れた「サッポロビール園」ポプラ館に決めていました。朝、直前の体調不良で歩けなかった2名が食事会に参加。少々お待たせしましたがようやく合流、総勢25名での昼食となり久しぶりに賑わいました。
アルコールのおかげか急な体調不良・後期高齢者の成人病・趣味の話、現役時代の話などなど、話に花が咲き解散は午後2半時を過ぎ、最後の飲物をオーダーして「健康を!」の掛け声による乾杯で幕を閉じました。


次回は今年度第4回目になる「冬を歩く会」を計画中!。開催日時とコースはこれから幹事会で検討し決定します。
お互いに〈健康寿命〉を永く維持できるよう、お身体を大切にしましょう!

(文と写真:山田)




北海道民放クラブの歩く会も64回を数え、参加人数も徐々に減少しつつあるという現実に直面しています。
そこで趣向を変え、単に歩いて飲むというパターンから脱却して、テーマに基づいたウォーキングを企画してみました。題して「**区ミニ歴史探訪」。…ということで第一弾は白石区に決定。

月25日10時にJR白石駅に集結し、真っ先に訪れたのはすぐ近所にある「やなぎ公園」。
一見何の変哲もない児童公園ですが、公園内の池にはやかんが載ったストーブのモニュメントがあって、やかんの口からは噴水状に水が流れ出ています。他にも小型のストーブのモニュメントが公園内のあちこちに置かれていたり、煉瓦がふんだんに使われていたり、なにやら曰く因縁がありそうです。

そうなのです。ここはかつて、1884年創業の鈴木煉瓦工場があった場所。煉瓦と言えば江別が有名ですが、北海道での煉瓦製造の先駆けはここの白石煉瓦なのです。
この白石煉瓦は北海道庁赤煉瓦庁舎や東京駅にも使われている非常に由緒のあるものです。

その後鈴木社長の娘婿の福岡清春氏が有名な「福禄ストーブ」を開発、その後の北海道での石炭ストーブ普及の礎となりました。これらの来歴を記念し、双方をモニュメントとして創業家の屋敷跡に整備されたのがこのやなぎ公園なのです。


次に訪れたのはここから1kmちょっと離れた住宅地に囲まれた所にある「白石本通墓地」。
尤も最初から住宅地に囲まれていたのではなく、墓地の周辺に住宅地が出来たという当たり前の経過です。
明治時代に、開拓使に無断で作られたという古い部分と、比較的新しいカトリック墓地に分かれています。

実はこの古い方の区画には、大変珍しい、土管で出来たお墓があります。以前はもっとあったそうですが、現存する物は写真の6基のみです。

これは明治時代に愛知県から渡ってきた前述鈴木煉瓦工場の職人、野田荒吉氏が親族のために作った物で、くっきりと刻まれた墓誌を見ているとタイムスリップしてしまいそうです。

この墓地内には、いつ誰が何のために作った物か分からない、殆ど真円のウッドサークルがあって、ことさら好奇心をそそられる場所でした。


続いて訪れた白石神社は、明治5年、北海道神宮の旧社殿を移設した由緒のある神社ですが、実はここの見所は、断崖の下に設けられた竜宮神社から湧き出る泉(メム)です。

平坦に見えて白石から月寒にかけては断層がはっきり見えるところで、ここもそういう部分に豊平川の伏流水が湧き出しているのです。

普段通っていても全く目に付かない所なので、神社の下が崖になっていてこのようなものがあることに、初めて見る参加者は一様に驚いていました。

以前はこんこんと湧き出していて、筆者も週に一回汲みに行っていたものですが、残念ながら現在は僅かにチョロチョロ湧いているだけで、水質的にも飲用には適さなくなっています。

お陰様で好評でしたので、気をよくして次回は「東区のミニ歴史探訪」を行い、出来れば全区、少なくとも東区、南区、西区、北区、白石区、発寒区?、中央区は網羅したいと思っています。
完結までに発寒区が誕生していることを期待しつつ…東南西北白発中…(^^)

(文と写真 越野)

参加者 HBC:石坂・上野・桑畑・越野・後藤・薗田・竹田・長原・松田
STV:出田・佐藤・長原・山田夫妻・山本
HTB:澤田・長谷川  UHB:野島






参加者 HBC:今井・奧山・桑畑・越野・竹田・冨原・松田
STV:出田・岩倉・高谷・山田夫妻
HTB:澤田夫妻・長谷川
UHB:難波・林  ゲスト:石井・小林

爆弾低気圧の発生で、前日から北海道全域が暴風雨に見舞われ、開催が危ぶまれた今年度最後の歩く会は、19名の参加によって雨中の強行開催となった。
道北・道東を中心に大荒れだった前日にかわり、朝から雲の切れ間に青空が見える。
JR稲積公園駅に集合。天気状況の説明のあと、コースを多少短縮して出発した。


稲積公園をぬけ、下手稲通りを横断。緑豊かな中の川左岸の堤防をゆく。

開拓橋をわたり、道々石狩手稲線を横断し、手稲区役所前〜JR手稲駅と歩き、正午には昼食会場の「花ごころ」に無事到着した。

まず、ビールで乾杯 !
懇親会が始まった。

昨年の歩く会は1回の開催だった。
今後は、冬の歩く会や、歩かない会の開催が話題になり、前向きに検討することになった。
また、コース候補地を具体的に提出していただき、幹事側が合わせて検討する方向で意見
がまとまった。お互いの健康維持を誓いながら散会した。

(山田 記)




高平(HBC)さんが一身上の都合で会長を勇退されたあと、暫く開催が遅れていた「歩く会」でしたが、今年初の例会を、去る829()に開催致しました。
地下鉄南平岸駅を起点に、平岸、西岡、月寒のアップダウンコースを辿り、会食場のアサヒビール園へ…。
強烈な残暑(というより盛暑)でしたが、爽やかな風に助けられ、心配した熱中症なども杞憂に終わって、恒例の如く楽しい昼食会となりました。(記念写真は、美人ガイドの菅原さん撮影)
暫くぶりの開催を迎え、幹事の動きが遅くてご迷惑をお掛けしましたが、今までの高平さんのご尽力がどれほど素晴らしいものあったかを痛感させられる運営でした。改めて、これまでの労に心からお礼申し上げる次第です。
                    


                 (世話人一同)